イシューを正しく設定するために、現実を直視する


私たちが望ましい方向に向かって日々前進するためには、「イシュー」というものが正しく設定されているかどうかが極めて重要です。「イシュー」は、私たちが何をすべきなのか、という論点を与えてくれるものです。

 

イシューの設定を間違っていると、解決しようとしていること、達成しようとしていることそのものが、そもそも間違っているということになり、いくら努力をして時間をかけてやり遂げてもまったくの無駄になります。

 

しかし、そのことは理解したとしても、実際に素晴らしいイシューを見つけ出すのはなかなか困難なことです。

 

イシューについて考えるとき、自分はいつも次の二つのことだけを考えるようにしています。
① 本当はどうなっているべきなのか?(目標、理想)
② 今、実際どうなっているのか?(現実、事実、真実)

 

この二つの間にあるギャップがイシューだと思っています。

 

たったこれだけのことですが、やろうとすると難しいものなのです。

正しい目標や理想を描くことも簡単なことではないかもしれませんが、それよりも更に難しいのは「今、実際どうなっているのか?(現実、事実、真実)」を正しく認識することだと思います。

ロゴスウェアの価値観に「現実を直視する」を掲げた理由がここにあります。現実を直視しなければ、正しいイシューは設定できません。正しいイシューが設定できなければ目標を達成できません。

さて、現実を直視することを困難にしている要因はいったい何でしょうか? 基本的には、次の二つです。
① 見たくない現実
② 見えない現実

 

正直、誰にでも「①見たくない現実」があります。 理想と現実のギャップは常にストレスですから、出来ることなら避けて通りたくなるでしょう。 特に組織的な問題だとギャップの解消が難しいのでよりストレスになります。 そして、そんなストレスを運んでくる人たちはトラブルメーカー、厄介者に見られかねません。 厄介者になるくらいなら見て見ぬふりをした方がよい、と考える人も多くいるでしょう。

このように、この問題は日常的に起こり得るものです。この問題を解決しなければ、組織から目標に向かって進む推進力が失われます。

 

しかし、問題を直視しないと物事はより悪化していくだけです。 心を整えて現実と向き合いましょう。 まず、ボトルネックだけに集中しましょう。 理想と現実のギャップはおそらくたくさんあります。たくさんあり過ぎては集中力を失い、気がめいるだけです。細かいことは気にせず、もっとも重要な一つに集中しましょう。それがボトルネックです。そして、とにかくその一つの問題の解決に全エネルギーを注ぐことです。

解決策もなく、たくさんの問題を持ち出してくるものはただの厄介者かもしれません。しかし、ボトルネックに集中し、その解決のために行動するものは素晴らしい改革者です。

もう一つの問題は、「② 見えない現実」です。 見ないように故意に避けているわけではありません。しかし、それでも現実が見えない場合があります。 現実、事実、真実が、いろいろな原因で歪められているからです。

現実、事実、真実は、たびたび次のような考えによって歪められます。
・ 本にそう書いてあったから正しいに違いない
・ 何々はこれでうまくいったので正しいに違いない
・ 誰々がそういっていたので正しいに違いない
・ ずっとそうやってきたので正しいに違いない

そんなことはありません。 社会現象において、いつでも、どんなときでも、どんな状況でも成立するようなものはまず存在しません。 従って、他ではうまくいった、などというものはまず全て疑うべきです。 なぜ、なぜ、なぜ、を追求し、なぜなのかを説明できないものは事実や真実ではないと思うべきです。

今巷で起こっている現象や出来事は、本当に見たまま聞いたままの出来事として受け入れていいことなのかを疑うべきです(この思考法を鍛えるのが、クリティカル・シンキングの役割です)。

現実を直視すれば、良いイシューに近づけます。良いイシューとは、現実と目標の差は本当は何なのかを示してくれるものです。それさえ解決すれば、目標に最短距離で近づけるのです。こんな効率的なやり方はありません。

 

みんながリーダーシップを発揮する組織


私たちの仕事のほとんどは、一人で達成するものではなく、複数の人が関わった組織としての成果をあげるものです。

関わっている組織は、きっと次の3種類です。

  1. 全社員が関わるもの
  2. 所属部署に関わるもの
  3. その時々の仕事に応じて変わるもの

そして、複数の人で何かをしようとするならば、必ずそこにリーダーシップが必要になります。

「全社員が関わるもの」のリーダーシップは、典型的には、経営トップや経営スタッフ職の人たちが担います。「所属部署に関わるもの」のリーダーシップは、各部署のマネージャが担うでしょう。これらの二つは、役割も明確であり、従来からリーダーシップ対策が採られている領域です。

さて、問題は、「その時々の仕事に応じて変わるもの」のリーダーシップです。これは、誰が担うべきものでしょうか?

「その時々の仕事に応じて変わるもの」はチームと言い換えることができます。それは、典型的には、組織図に書かれた固定された組織ではありません。誰がメンバーかは状況次第です。

今日の仕事を取り巻く環境は複雑で、しかもスピードを求められます。これは、組織運営を「職種別の部署」から「目的別のチーム」に移していくことを要求しています。そして、残念なことに、このチームを動かすことが日本人は弱いと言われており(あるいは、日本にはチームがそもそも無い、などと言われます)、それが最近チームとリーダーシップを切り口にした本が多く出版されるようになっている背景だと思います。

私たちは、ついリーダーシップを人に属するものだと考えてしまいます。つまり、経営トップや部署マネージャの人たちだけが担うものだと考えがちです。この考えを改めることが「チーム」を動かす第一歩です。チームの活性化のためには、リーダーシップは全員が状況に応じて担わなければなりません。

リーダーシップには、様々な定義がありますが、私は次のように定義したいと考えています。

リーダーシップとは、物事を前に進めるために組織の行動を促すこと

リーダーシップを発揮するのに「自分に知識があり、いつも正解を知っていること」が求められるわけではありません。 知識や正解は誰が持っていてもいいのです。あるいは、自分が最終的な意思決定者になる必要すらないのです。 物事を進めるために、最適な意思決定者に判断を仰げばいいのです。とにかくリーダーにとって大事なのは、問題を提起し、議論を誘発し、人の行動を促すことです。組織が目標に向かって前進しさえすればいいのです。それがリーダーシップです。

ロゴスウェアでは、全社的なリーダーシップトレーニングを開始しました。 私たちが選んだテキストは、ケン・ブランチャード著「リーダーシップ論」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

ネルソン・マンデラ


リーダーシップについて考えるとき、いつも頭に浮かぶ人物がいます。

それは、ネルソン・マンデラ

映画「インビクタス/負けざる者たち」(監督:クリント・イーストウッド、2009年)を見たとき、衝撃を受けました。

舞台は南アフリカ共和国。1990年に27年の投獄から釈放された活動家ネルソン・マンデラは、1994年に同国初の黒人大統領となります。しかし、黒人と白人の間に根強い対立が残っています。

そんな中、1995年、ラグビーのW杯が南アフリカで開催されます。ラグビーは、アパルトヘイトの象徴のようなスポーツ。 白人のみが行うスポーツ。 マンデラは、黒人たちの猛反対の中、ラグビーを支援し、最終的に、W杯での優勝、そして黒人と白人の和解と団結に導きます。

この映画を通して示されるネルソン・マンデラの言動や行動は、多くの人たちにリーダーシップとは何かを考えさせるでしょう。それは、地位の力によって命令するのではなく、許すこと、支えることによって人々をゴールに導くリーダーシップだからです。

誰もがリーダーシップを発揮することが求められる現在。新しいリーダーシップのあり方を具体的にイメージすることができる映画です。

ところで、この映画の中で、象徴的に何度も語られる詩があります。それは、英国の詩人ウィリアム・アーネスト・ヘンリーによって作られた詩で、ネルソン・マンデラが獄中で心の支えにしていた詩、そしてマンデラがラグビー南アフリカ代表キャプテンに手渡した詩です。詩のタイトルは「インビクタス」。

この詩は、次の言葉で締めくくられます。

I am the master of my fate, I am the captain of my soul (我が運命を決めるのは我なり、我が魂を制するのは我なり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

設立からの10年とこれから


ロゴスウェア株式会社を設立したのは2001年7月。ちょうど10年が経ちました。本当に何も無い状態からのスタートでした。売る製品もゼロ、顧客もゼロ。1年も経たないうちに会社の銀行口座の預金残高もゼロになりました。借金と自分の預金を崩して社員の給与を支払う、そんなスタートの1年でした。


これでは会社が立ち行かないので、2年目には、収入を得るために、受託でデジタルコンテンツ制作やシステム開発を始めました。何の実績も無い自分たちに仕事を依頼してくれた人たちに今でも大変感謝しています。基本的にどんな仕事でもやりました。仕事の内容は重要ではありませんでした。この時期、自分たちにとって仕事を得ることは本当に難しかったのです。そして、どんな仕事にも感謝したのです。

自分たちの製品の開発に着手できたのは3年目からです。相変わらず十分な資金はありませんから、受託請負仕事を続けながら、時間をやり繰りしての製品開発です。この状態を何年も続けました。少しずつ、製品を増やし、製品を強化し、少しずつ、少しづつ、製品売上の比率を高め、受託請負開発の仕事の割合を減らしていきました。

この何年もの間、収入を得るための受託請負仕事と製品開発のバランスを取ることが最大の経営課題でした。受託請負開発をすれば収入は増えますが、製品開発が停滞し将来がありません。製品開発に専念しすぎると、未来に到達する前に死んでしまいます。

このバランスをとり続けることは、ストレスもかかり、忍耐のいることでしたが、自分たちは、ついに、受託請負開発から、製品開発の会社に変わることができました。会社の設立からの10年を総括するとこんな感じです。

起業家 にとって一番怖いことは、競合相手ではありません。それは自分自身です。自分自身を奮い立たせるエネルギーが枯渇することです。会社を経営していくことは、想定外のことの連続です。どんなに経験を積んだ人にとっても、これまでの仕事では体験しなかった問題に直面します。答えの分からない 問題です。自分に向き合い、一人で決断しなければならない問題です。

絶対に正しいとは言い切れない場所に、絶対に正しいとは言い切れないやり方で、多くの社員を導かなければならない仕事です。そのような仕事は、エネルギーが尽きてできるものではありません。このエネルギーを失った時に、経営者は職を辞すべきです。

幸いにも自分は今の状態に満足していません。達成感というものもありません。むしろ、やり残した感がたくさんあります。だから、今しばらくは、エネルギーを失わずに進めそうです。

このロゴスウェアという会社を、世界で、グローバルな環境で戦える会社にしてみたいのです。世界を相手に事業をする喜び、やり甲斐を社員一人ひとりが味わえるようにしてみたいのです。それがこれからの仕事です。

逆シングルで捕る


2週間ほど前のある新聞記事より

今季、米国大リーグ、ツインズに入団した西岡という遊撃手がいます。彼は、あるとき試合で目の覚めるようなファインプレーをしました。三遊間深くに転がったゴロをに追いつき、体の正面で捕球。一塁にノーバウンドで送球し、間一髪でアウトにします。

後日、監督から注文がつきました。「体の正面ではなく、逆シングルで捕って欲しい。そうすれば、もっと早く打者走者を刺せるはず。」

三遊間のゴロの処理について、日米間で考え方の違いがあります。

日本では、ゴロの正面に回り込んで捕るのが基本。球を後ろにそらさない確実性が重視されています。一方、大リーグでは、体から右よりのゴロは、グラブを伸ばして片手でとる逆シングルが主流。球をはじくリスクもあるが、無駄な動きが無い分、素早く送球体制に入れます。

正面で捕るのは、いかにも日本人らしい。正面で捕っていては、どんなに堅実なプレイをし、エラーを無くしたとしても、どうしても一定割合で打者に内野安打を許します。

にも関わらず、正面で捕るのはなぜでしょうか?正面で捕ってさえいれば、内野安打を許してもエラーと判定されないからでしょうか?エラーと判定されなければ自分のせいではないからでしょうか?

合理的には、こう考えるべきです。 「正面で捕って内野安打を許す確率、逆シングルで捕ってエラーする確率、どちらが大きいのか?」 判定が内野安打であれ、エラーであれ、どちらにしても走者を許すわけで、結果は同じなんですから。

さて、私たちは、同様の状況に、日常の仕事の中で、年中遭遇します。いつもエラーしないやり方、「体の正面で捕る」やり方、だけを常識だと思い込んでいます。でも、「逆シングルで捕る」やり方についてちょっと考えてみましょう。その方が、合理的に考えて、成功確率を高めるということはあるのだから。