私たちの仕事のほとんどは、一人で達成するものではなく、複数の人が関わった組織としての成果をあげるものです。
関わっている組織は、きっと次の3種類です。
そして、複数の人で何かをしようとするならば、必ずそこにリーダーシップが必要になります。
「全社員が関わるもの」のリーダーシップは、典型的には、経営トップや経営スタッフ職の人たちが担います。「所属部署に関わるもの」のリーダーシップは、各部署のマネージャが担うでしょう。これらの二つは、役割も明確であり、従来からリーダーシップ対策が採られている領域です。
さて、問題は、「その時々の仕事に応じて変わるもの」のリーダーシップです。これは、誰が担うべきものでしょうか?
「その時々の仕事に応じて変わるもの」はチームと言い換えることができます。それは、典型的には、組織図に書かれた固定された組織ではありません。誰がメンバーかは状況次第です。
今日の仕事を取り巻く環境は複雑で、しかもスピードを求められます。これは、組織運営を「職種別の部署」から「目的別のチーム」に移していくことを要求しています。そして、残念なことに、このチームを動かすことが日本人は弱いと言われており(あるいは、日本にはチームがそもそも無い、などと言われます)、それが最近チームとリーダーシップを切り口にした本が多く出版されるようになっている背景だと思います。
私たちは、ついリーダーシップを人に属するものだと考えてしまいます。つまり、経営トップや部署マネージャの人たちだけが担うものだと考えがちです。この考えを改めることが「チーム」を動かす第一歩です。チームの活性化のためには、リーダーシップは全員が状況に応じて担わなければなりません。
リーダーシップには、様々な定義がありますが、私は次のように定義したいと考えています。
リーダーシップとは、物事を前に進めるために組織の行動を促すこと
リーダーシップを発揮するのに「自分に知識があり、いつも正解を知っていること」が求められるわけではありません。 知識や正解は誰が持っていてもいいのです。あるいは、自分が最終的な意思決定者になる必要すらないのです。 物事を進めるために、最適な意思決定者に判断を仰げばいいのです。とにかくリーダーにとって大事なのは、問題を提起し、議論を誘発し、人の行動を促すことです。組織が目標に向かって前進しさえすればいいのです。それがリーダーシップです。
ロゴスウェアでは、全社的なリーダーシップトレーニングを開始しました。 私たちが選んだテキストは、ケン・ブランチャード著「リーダーシップ論」です。
リーダーシップについて考えるとき、いつも頭に浮かぶ人物がいます。
それは、ネルソン・マンデラ
映画「インビクタス/負けざる者たち」(監督:クリント・イーストウッド、2009年)を見たとき、衝撃を受けました。
舞台は南アフリカ共和国。1990年に27年の投獄から釈放された活動家ネルソン・マンデラは、1994年に同国初の黒人大統領となります。しかし、黒人と白人の間に根強い対立が残っています。
そんな中、1995年、ラグビーのW杯が南アフリカで開催されます。ラグビーは、アパルトヘイトの象徴のようなスポーツ。 白人のみが行うスポーツ。 マンデラは、黒人たちの猛反対の中、ラグビーを支援し、最終的に、W杯での優勝、そして黒人と白人の和解と団結に導きます。
この映画を通して示されるネルソン・マンデラの言動や行動は、多くの人たちにリーダーシップとは何かを考えさせるでしょう。それは、地位の力によって命令するのではなく、許すこと、支えることによって人々をゴールに導くリーダーシップだからです。
誰もがリーダーシップを発揮することが求められる現在。新しいリーダーシップのあり方を具体的にイメージすることができる映画です。
ところで、この映画の中で、象徴的に何度も語られる詩があります。それは、英国の詩人ウィリアム・アーネスト・ヘンリーによって作られた詩で、ネルソン・マンデラが獄中で心の支えにしていた詩、そしてマンデラがラグビー南アフリカ代表キャプテンに手渡した詩です。詩のタイトルは「インビクタス」。
この詩は、次の言葉で締めくくられます。
ロゴスウェア株式会社を設立したのは2001年7月。ちょうど10年が経ちました。本当に何も無い状態からのスタートでした。売る製品もゼロ、顧客もゼロ。1年も経たないうちに会社の銀行口座の預金残高もゼロになりました。借金と自分の預金を崩して社員の給与を支払う、そんなスタートの1年でした。
2週間ほど前のある新聞記事より
今季、米国大リーグ、ツインズに入団した西岡という遊撃手がいます。彼は、あるとき試合で目の覚めるようなファインプレーをしました。三遊間深くに転がったゴロをに追いつき、体の正面で捕球。一塁にノーバウンドで送球し、間一髪でアウトにします。
後日、監督から注文がつきました。「体の正面ではなく、逆シングルで捕って欲しい。そうすれば、もっと早く打者走者を刺せるはず。」
三遊間のゴロの処理について、日米間で考え方の違いがあります。
日本では、ゴロの正面に回り込んで捕るのが基本。球を後ろにそらさない確実性が重視されています。一方、大リーグでは、体から右よりのゴロは、グラブを伸ばして片手でとる逆シングルが主流。球をはじくリスクもあるが、無駄な動きが無い分、素早く送球体制に入れます。
正面で捕るのは、いかにも日本人らしい。正面で捕っていては、どんなに堅実なプレイをし、エラーを無くしたとしても、どうしても一定割合で打者に内野安打を許します。
にも関わらず、正面で捕るのはなぜでしょうか?正面で捕ってさえいれば、内野安打を許してもエラーと判定されないからでしょうか?エラーと判定されなければ自分のせいではないからでしょうか?
合理的には、こう考えるべきです。 「正面で捕って内野安打を許す確率、逆シングルで捕ってエラーする確率、どちらが大きいのか?」 判定が内野安打であれ、エラーであれ、どちらにしても走者を許すわけで、結果は同じなんですから。
さて、私たちは、同様の状況に、日常の仕事の中で、年中遭遇します。いつもエラーしないやり方、「体の正面で捕る」やり方、だけを常識だと思い込んでいます。でも、「逆シングルで捕る」やり方についてちょっと考えてみましょう。その方が、合理的に考えて、成功確率を高めるということはあるのだから。