プログラム学習の亡霊


文部科学省のサイトでは過去の教育白書というののが閲覧できるようになっている。

昭和39年の「我が国の教育水準」の中にプログラム学習という項目がある。 次のように書いてある。

いっせい授業のもとでは,学級の多くの生徒は教師の講義を真に理解していない場合が少なくない。プログラム学習とは,このようないつせい授業の効率の悪さに対する反省の上に立つて,ひとりひとりの生徒に学習を成立させることを目標として生み出された新しい教育方法である。

この方法は学習者に学習のプログラムを示し,それに従って ひとりひとりが,その能力差,個人差に応じてそれぞれの早さで,あるいはそれぞれ異なった過程をふみながら学習していくことをその特色としている。

プログラムは単純な問題(ステップ)に分析し,児童生徒の能力に応じてそのステップの解答,訂正を継続していくことによって学習事項を理解されるようにつくられているものである。このプログラムは,いわゆるティーチンダマシンによって提示される。

昭和39年ということは、今から44年も前の記述である。  何と現在のeラーニングと同じ発想ではないか。 違いは、昔のプログラム学習ではティーチングマシンと称する機械で出題されていたが、現在のeラーニングではインターネットを使うというだけだ。

佐伯 胖著「マルチメディアと教育」によれば、このようなプログラム学習を推進していた人たちは、1970年代に姿を消してしまったそうだ。そこには、人間が「本当にものがわかる」とか、「ものを理解する」とはどういうことなのかの視点が欠けていたからだという。 

それにかわって台頭してきたのが認知心理学なのだという。 その思想は、「人間は外界からの一方的な働きかけにしたがって学習を進めるような存在ではなく、みずから世界を意味づけ、ものごとを説明し理解するために積極的に世界に働きかける存在である」というものであるそうだ。

「プログラム学習という40年も前の亡霊がインターネットという世界に復活しeラーニングと名前を変えた」 - eラーニングがいまひとつ浸透しない理由はこういうところにあるような気がするのだ。 そして、eラーニングは単純にそのようなものであってはいけない。

eラーニングは今、明らかに進化が求められている。 

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