JAZZを聞く楽しみ方は人それぞれなのだろうが、自分にとっては即興演奏だ。
JAZZの即興演奏はその曲のコード進行にのって自由にメロディを奏でるところからスタートした。同じコード進行でも、自分ならもっといかしたメロディを奏でられるというものたちが競い合った。
そのうち、このコード進行というもの自体を不自由に感じるものたちがあらわれた。コード進行の制約から解放されたいと願った。 彼らは、あるときはモードと呼ばれる旋律をベースに演奏した。あるときは、代理コードや裏コードを駆使して自在にコード進行を変形させた。あるときは、スケールアウトし緊張感を高めようとした。
ハービー・ハンコックやウェイン・ショーターの域に達すると、時に、どのような理論にも基づかないメロディが奏でられる。JAZZの即興演奏家たちが追求してきたものは自由だ。よりエキサイティングな音楽、より美しい音楽を演奏するために自由になろうとした。
JAZZ演奏の初心者は、コード進行に頼らざるをえない。 実際、決まったコード進行の上で自由に演奏することさえ相当に難しいのだ。
卓越した技能を持ったもののみが、より高度な自由を得ることができる。サックス奏者が自由にスケールアウトしていくとき、即興でピアノ奏者がそれに合ったハーモニーをつけるというのはあまりにも高度なテクニックだ。ピアノ奏者がオリジナルの進行から離れて自由にコードを展開していくときに、サックス奏者がそれに合ったメロディを即興で奏でるのもとても難しいことだ。
「働き方における自由さ」は、ロゴスウェアが追求するものの一つだ。自由を考えるときに私の頭にイメージされるのは、JAZZ即興演奏家たちの姿だ。私たちは、最高の仕事を成し遂げるために自由になりたい。決して一人ひとりが勝手気ままにやることではない。最高の成果を達成するために自由になりたいのだ。
あるものは、「どこまでが自由でどこからが自由ではないのか」と問う。
答えは、「それは、あなた自身の能力と組織の能力に依存する」ということだ。
もし、あなたのその振る舞いによって組織として何かを達成することが妨げられるのであれば、あなた自身に、あるいは組織に、まだその自由を使う能力がない。
もし、あなたが自由に発想し行動することによって、組織として最高の何かが成し遂げられるのであれば、それは素晴らしい。あなたは自由だ。