モーセのように


キリスト教文化圏の人たちにとって、リーダーのイメージとはモーセであるという。

奴隷になってしまったイスラエルの民をエジプトから約束の地カナンに導くリーダーとして、なぜかはわからないが、神はモーセを選んだ。

モーセ自身、私は雄弁でもなければカリスマでもなく、とてもそのような大役は務まりません、といって固辞するのだが、神にそのような理由は通用しない。

というわけで、モーセはこの仕事にとりかかるのだが、それは大変な困難な仕事であった。 40年間をかけて、イスラエルの民のために、そして神から与えられた使命を果たすためにモーセは働く。 

最もつらかったであろうことは、多くのイスラエルの民の不平・不満であっただろう。 奴隷から開放される喜びなどを感じていたのは最初のほんの数日だけで、その後は、不平・不満の連続だ。 「余計なことをしてくれた」、「こんなことなら奴隷のままの方がよかった」などという。

人間はわがままなものである。楽をしたい、安定したい、贅沢をしたい、あれも欲しい、これも欲しい。 

それは分かるが、それでもやらなければならないことがある。 苦難を伴ってもやるべきことがある。 それをリーダーは実行しなければならない。 人に好まれることばかりではないが、やらなければならないことがある。

そういうモーセの姿が旧約聖書の中に出エジプト記として描かれている。 キリスト教の人たちは(もちろんユダヤ教の人たちも)、この物語を、たぶん日本人が浦島太郎の物語を何度も聞くくらいに聞いている。 それは幸いなことのように思える。 リーダーとなる人も、リーダーに従う人も、共通のイメージを持てるのだから。日本人の中にリーダーの共通のイメージがないのは不幸なことだ。 

リーダーシップは仕事である。 カリスマ性のような天賦の才能が必要というわけではない。 リーダーとは為すべきことを為す人をいう。  為すべきこととは、使命やビジョンを達成することである。 万人に愛されることを望んではならない。

聖書そのものを読むのは少々苦痛だから(言葉が文語体になっていたりするので)、パール・バック著「聖書物語 旧約篇」などを読むと良い。 リーダーシップの細かいテクニックどうのこうのの前に、知っておくべき大事なことを教えてくれるはずだ。

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