歴史を振りかってみれば、民主主義というものが始まったのはそう昔のことではないようだ。 アメリカ合衆国は、1776年の独立宣言で「自由」と「平等」を高らかに謳い上げるが、その後長いこと奴隷制度はあったし、ヨーロッパ文化を引き継いだ階級意識のようなものも存在した。
しかし、アメリカは高い理想を掲げた。人民主権の国がうまくいくかどうかわからないが、とりあえずやってみよう、となった。 壮大な実験が始まった。
「一般国民の多数決で正しいことなんて決められるわけがない」というのが当時のほとんどの国の考えだ。「しかるべき人たちがしかるべき方法で決めるのがよい」と考えられていた。 つまり、専門知識も何もない一般国民に国の大事なことを決めさせるなんて危なすぎる、としかるべき身分にいる人たちは考えていたのだ。
多くの論争と時には血を流す戦いの末、一歩一歩、民主主義は成長し、ついには1917年の対ドイツ宣戦布告文の中でアメリカは「世界の民主主義のために戦う」と謳うことになる。
今は当たり前のように思われている民主主義だってこのような長い歴史の中で作られたものであるから、ウェブの世界で話題になる「群集の知恵」(Wisdom of Crowds)が広く浸透するにはまだ多くの実験が必要だし、時間がかかるだろう。
実空間の民主主義だって完全にすばらしく機能しているわけではなく、今だって理想に向かって進んでいる状態なわけだから、仮想空間の群集の知恵が今完全に機能していなくたって、なんら問題はない。
そのような仮想空間の世界を理想的だと思う人たちと、馬鹿げた世界だと思う人たちが両方いる。
「ウェブの世界は玉石混交だ。くだらないもの、間違ったもので溢れかえっていて信用がおけない。その点、既存メディアである新聞やテレビは信頼に値する。」と権威のある人たちは言う。
ただ、私はウェブの未来を信じるのだ。 民主主義が、身分とそれに付随する特権から人を開放して、自由と平等を推進したように、ウェブは新たな人間の解放を成し遂げると思う。
いま私たちには、貴族とか農奴とか奴隷とかの身分制度はない。貴族だけに与えられていたような特権もない。しかし、社会にはまだ不平等なところがあるのだ。
日本の官僚はずいぶんと好き放題をしているようだし、組織の中でも何か納得のいかない理由で一部の人たちに権限が集中しているということもあるだろう。
何がそうさせるのだろうか?
その一つの原因は、情報が開放されていないからではないかと思うのだ。ある特定の情報を握ったものが、それを抱え込み、それによって自分を権威付けしているのでないか。
「知と情報」が開放されたら、人間は次の次元の「自由」と「平等」を手に入れるのではないか。それがウェブが担う役目なのだと思う。