他人を気にしすぎるのをやめよう


社会心理学での有名な実験に、次のようなものがる。

被験者4人に、一人1,000円を持たせる。

全員に寄付を呼びかけ、各々は自分の好きなだけの額を寄付する。 寄付をしないという選択もできる。

寄付されたお金は全員分が集められ、その合計額を2倍にする。

それが、4人に均等に分配される。

この実験の結果は、日本人とアメリカ人で大きな違いがでるのだという。

この実験を自分がどれだけの寄付をするかを他人が知ることができない環境で行ったときに、日本人のグループでは、寄付額の合計がアメリカ人のグループの合計よりもとても少ないのだという。 一方、自分の寄付額が他人に分かるような環境で行うと、日本人のグループの寄付額の合計は上がるという。

社会心理学者は、これらを踏まえて、日本人の社会は、信頼と協調の社会ではなく、相互監視による集団主義であると述べている。つまり、日本人の行動の基準となっているのは、個人の考え方や価値観によるのではなく、他人からどう見られるか、に強い影響を受けるのだという。

日本人は過度に他人のことを気にしすぎると思う。 他人と違うことをすることにひどく怯え、 自分の考えに自信がなく、人と議論するととても落ち込む。

多くの専門家は、これらの根本原因として、日本人の甘えの構造を指摘する。土居健郎著「甘えの構造」が30年ぶりに復刻した背景には、自己を確立できない日本人に対する危機感があるのかもしれない。

人と違っていていいじゃないか。

群れる必要なんてないじゃないか。

人より上か下かなんて関係ないじゃないか。

他人を気にしすぎるのはやめようじゃないか。

あなたはあなたらしくあればいいじゃないか。

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五蘊皆空


人間の行動の動機を理解する理論として、アブラハム・マズローの欲求段階説が引き合いに出されることが多い。人間は、生理的欲求(人間が生きる上での衣食住等の根源的な欲求)からスタートし、段階的に自己実現の欲求へと登っていくという理論だ。

これは正しいのかもしれない。人は最終的に自己実現の達成のために働くべきであるとは思う。

しかし、一方で、これは多くの人間にとって救済にはならないようにも思う。マズローも、自己実現を果たし自己超越の域に達する人は極めて少ない、と述べている。

多くの人は、モノ、金、地位、愛情などが手に入らないと嘆き、また一度手に入れても、それらを失うことを恐れて苦しむ。

そんなときに、仏教に素晴らしい教えがある。 「五蘊皆空(ごうんかいくう)」というものだ。

五蘊皆空は、般若心経の中に出てくる言葉だ。般若心経は、漢字262文字で構成された大変短い文で、大般若経と呼ばれる全600巻にもおよぶ大乗仏教の経典のエッセンスを凝縮したものであるという。五蘊とは、五つの集まりという意味で、簡単に言うと、物質とあやゆる精神のことだ。五蘊皆空とは、それらはすべて「空(くう)」であると言っている。

「空(くう)」の思想は、仏教の根幹を成すものだ。それを理解することは悟りの境地に達するということで、とても難しいことなのだろうが、勝手に解釈すれば、「あらゆるものは、すべて移り変わり、いずれ失うような実体のないものである。したがって、そんなものに執着しても無駄である。執着しても無駄なものに執着するから苦しむ。一切のものはそのような実体のないものであると理解し、執着しなければ苦しむこともない。」というようなことである(と思う)。

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捨ててもいいものは何か


仕事のことやその他のことでも人はそれぞれ思い悩むものである。

私はよくトレードオフのことについて話す。いろいろ思い悩んだときは、何を捨ててもいいかをはっきりさせておくほうが良いと考えるからだ。

昔、巨人の星というTVアニメがあった。主人公 星飛雄馬は、父 一徹から野球の英才教育を受けて育つ。子供の頃から明けても暮れても野球一筋で育てられ、プロ野球巨人軍に入団する。その中に、ライバルのオズマから「お前は野球人形だ」と言われ、ショックを受ける話がある。自分は野球ばかりで、他の人が体験するような青春がない、と悩むのだ。

一流のアスリートの多くは、必ず何かを犠牲にしてきた。 女子ゴルフの横峰さくらや宮里藍にしても、卓球の福原愛にしても、彗星のごとく登場した男子ゴルフ 15歳の石川遼にしても。

それは、大きな経済的な負担であったかもしれないし、勉強時間を犠牲にしたかもしれないし、他の子供と楽しく遊んだりする時間を削ったかもしれないし、恋愛をすることを犠牲にしたかもしれない。

このような犠牲を一切払いたくないと考えれば、間違っても彼らのように若くしてアスリートとして成功することはできない。彼らはみんなまだ若い。しかし、自分にとって何を達成することが重要で、何は捨ててもいいかをはっきり理解していることにおいて彼らは紛れもないプロだ。

私たちのまわりには両立させることができない多くのことがある。自由を求めれば、責任を回避することができない。何かを成し遂げようとすれば、他の時間を削らなければならない。収入をあげようとすれば、仕事のプレッシャーから逃げられない。成功をしようとすれば、失敗のリスクがつきまとう。

単純なことである。両方求めることはできないのだ。「自由でありたいが、責任は取りたくない」、「大きな仕事の成果を上げたいが、趣味にもたくさんの時間を使いたい」、「収入は上げたいが、楽な仕事がいい」、「成功はしたいが、失敗はしたくない」などはありえないのだ。

人生をどう選択するかは一人ひとりが考えることだ。何をあきらめてもいいのかをはっきりさせれば、そう難しいことではない。

そのことを理解するだけでも、人生はずいぶん気が楽になるように思う。

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出エジプト記


旧約聖書の中に納められた物語の中でも、出エジプト記はとりわけドラマティックで面白い。

当時多くのイスラエルの民は、エジプトで奴隷となって暮らしていた。ある日、神はモーセに命じた。イスラエルの民(その数60万人以上)をエジプトから脱出させ、神がイスラエルの民に約束した地、カナンに導くようにと。

この旅の途中、イスラエルの民はあまりにも身勝手であった。のどが渇いたといっては愚痴を言い、腹が減ったといっては文句を言い、肉を食いたいといっては不平を言う。その度ごとにモーセは、神に許しを請い、神は奇跡を起こし彼らを助けた。

しかし、彼らが神との契約、十戒をそむくようになり、神の怒りは頂点に達した。モーセも燃え上がった怒りの中で、十戒が刻まれた石の板を叩き割り、神に背く者たちを処刑した。しかし、イスラエルの民の全てが神の怒りによって滅ぼされることを望まず、再び神に許しを請うた。

いよいよカナンの地を目前にすると、カナンの地に住んでいるものたちとの戦いにおびえた。「我々はエジプトの地で死んだほうがよかったのに、なぜ我々を連れてきたのか」とモーセを責めた。それは神を再び怒らせ、それから40年の間、荒野をさまようことを命じられた。

40年におよぶ放浪の旅の中で、神に不平を言った人たちは全て死に、イスラエルの新しい世代は、荒野で羊を飼うことに慣れ、敵と戦うことに巧みになり、鍛錬され、信仰も強くなった。 そして、遂に神がイスラエルの民に約束した地、カナンに入るのである。

出エジプト記は、3つのことを教えてくれる。

  • 第一に、人間の欲求には限りがないこと。あることが解決すると、別の不平・不満が生まれる。それが解決されると、更にまた別の不平・不満が生まれる。 ものごとを改善することが新たな不平・不満を生むというパラドックスがあることを教えてくれる。
  • 第二に、人の考えが変わるには、大変な時間がかかること。 エジプトで何世代にもわたって奴隷の状態にいたイスラエルの民は、何をせよ、こうせよと命令されることに慣れた臆病な民になってしまっており、それが変わるのに、40年におよぶ放浪が必要であった。
  • 第三には、モーセが示したリーダーとしての行動である。彼はどんなときにも、神を信じ、イスラエルの民のために神に祈った。しかし、戒律を破った者に対しては、断固とした処分を行った。十戒の刻まれた石には、人を殺してはいけない、と確かに記されていたはずである。しかし、イスラエルの民をカナンの地まで導く旅を続けるためには、彼はそうしなければいけなかった。アメリカ人にはおそらく旧約聖書の物語は身体に染み込んだものであり、彼らのリーダー像というのは、たぶんにモーセの影響があるのかもしれない。

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「なんとかなるよ」


何か厄介な問題に直面したり、困難な決断をしなければいけないとき、チャップリンの映画「モダン・タイムス」のラストシーンが思い出される。

何の仕事をしてもうまくいかないチャーリー。 街をうろつく中、孤独な浮浪少女に出会う。 二人のために家を建てようと俄然やる気をだすが、やっぱりそれもうまくいかない。 落ち込む少女を 「元気出して、くよくよするなよ、なんとかなるよ」 と励まし、長くまっすぐな道を二人が肩を寄せ合って歩いていくラストシーンで終わる。バックに流れる「スマイル」という曲が美しい。

だいぶ前、まだ学生のころ、街の名画座で見た。 それ以来、このラストシーンを繰り返し思い出す。 「どんなことになったって死にはしない。なんとかなるものだ。」という勇気と希望のメッセージを受け取った。

人によっては、このラストシーンから絶望をイメージする人もいるらしい。 最後に、二人は夕日に向かって歩いているからだそうだ。  とらえ方は人それぞれだが、私は楽観的なのだ。 その方が気が楽だと思う。

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