他人を気にしすぎるのをやめよう


社会心理学での有名な実験に、次のようなものがる。

被験者4人に、一人1,000円を持たせる。

全員に寄付を呼びかけ、各々は自分の好きなだけの額を寄付する。 寄付をしないという選択もできる。

寄付されたお金は全員分が集められ、その合計額を2倍にする。

それが、4人に均等に分配される。

この実験の結果は、日本人とアメリカ人で大きな違いがでるのだという。

この実験を自分がどれだけの寄付をするかを他人が知ることができない環境で行ったときに、日本人のグループでは、寄付額の合計がアメリカ人のグループの合計よりもとても少ないのだという。 一方、自分の寄付額が他人に分かるような環境で行うと、日本人のグループの寄付額の合計は上がるという。

社会心理学者は、これらを踏まえて、日本人の社会は、信頼と協調の社会ではなく、相互監視による集団主義であると述べている。つまり、日本人の行動の基準となっているのは、個人の考え方や価値観によるのではなく、他人からどう見られるか、に強い影響を受けるのだという。

日本人は過度に他人のことを気にしすぎると思う。 他人と違うことをすることにひどく怯え、 自分の考えに自信がなく、人と議論するととても落ち込む。

多くの専門家は、これらの根本原因として、日本人の甘えの構造を指摘する。土居健郎著「甘えの構造」が30年ぶりに復刻した背景には、自己を確立できない日本人に対する危機感があるのかもしれない。

人と違っていていいじゃないか。

群れる必要なんてないじゃないか。

人より上か下かなんて関係ないじゃないか。

他人を気にしすぎるのはやめようじゃないか。

あなたはあなたらしくあればいいじゃないか。

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人はそれぞれ違うもの


「アメリカやヨーロッパの書物を翻訳をする上で最も悩むのは、聖書からの引用をどう翻訳するかである」と翻訳家の人が述べているのを聞いたことがある。

アメリカ人やヨーロッパ人が共通知識として知っている聖書の教えや伝説などが書物の中にはたくさん登場する。

聖杯伝説は、おそらく日本人が桃太郎の話を良く知っているように、彼らにとっては常識として知っているものなのだろう。あるいは、マグダラのマリアに対しての共通したイメージを持っているのだろう。これらがベースにないと、「ダヴィンチ・コード」は面白みに欠けるのかもしれない。

言葉で何かを伝えようとするときに、最終的に課題となるのは、このような背景、文化、価値観、歴史を共有しているかどうかとなる。

日本人どおしが日本語でコミュニケーションをするときにも、少なからず同様の問題があるようだ。文化や価値観は、会社が違えば異なる。職種が違えば異なる。年齢が違えば異なる。性別が違えば異なる。

私が聖書を読んだりするのは、昔、多様な人種、多様なな宗教、多様な国籍、の人たちと仕事をした経験からきている。彼らを理解しなければ真にコミュニケーションをとることが難しかったのだ。

私たちは、もう少し、自分と違う(会社、職種、年齢、性別、など)人たちを理解することに努力をした方が良い。円滑なコミュニケーションはそういう土台の上に築かれるものだ。決してハウツー本を読んだだけで得られるものではない。

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五蘊皆空


人間の行動の動機を理解する理論として、アブラハム・マズローの欲求段階説が引き合いに出されることが多い。人間は、生理的欲求(人間が生きる上での衣食住等の根源的な欲求)からスタートし、段階的に自己実現の欲求へと登っていくという理論だ。

これは正しいのかもしれない。人は最終的に自己実現の達成のために働くべきであるとは思う。

しかし、一方で、これは多くの人間にとって救済にはならないようにも思う。マズローも、自己実現を果たし自己超越の域に達する人は極めて少ない、と述べている。

多くの人は、モノ、金、地位、愛情などが手に入らないと嘆き、また一度手に入れても、それらを失うことを恐れて苦しむ。

そんなときに、仏教に素晴らしい教えがある。 「五蘊皆空(ごうんかいくう)」というものだ。

五蘊皆空は、般若心経の中に出てくる言葉だ。般若心経は、漢字262文字で構成された大変短い文で、大般若経と呼ばれる全600巻にもおよぶ大乗仏教の経典のエッセンスを凝縮したものであるという。五蘊とは、五つの集まりという意味で、簡単に言うと、物質とあやゆる精神のことだ。五蘊皆空とは、それらはすべて「空(くう)」であると言っている。

「空(くう)」の思想は、仏教の根幹を成すものだ。それを理解することは悟りの境地に達するということで、とても難しいことなのだろうが、勝手に解釈すれば、「あらゆるものは、すべて移り変わり、いずれ失うような実体のないものである。したがって、そんなものに執着しても無駄である。執着しても無駄なものに執着するから苦しむ。一切のものはそのような実体のないものであると理解し、執着しなければ苦しむこともない。」というようなことである(と思う)。

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自ら変化せよ


「世界に変化を望むのであれば、自らがその変化の一部となれ」

非暴力・不服従を提唱し、インド独立運動を指揮した偉大なる宗教家、政治指導者 マハトマ・ガンジーの言葉である。

私たちには変化させたいものがたくさんある。人間が行ってきた行為はいつも完璧ではないからだ。地球環境を変えたいし、先進国と途上国の格差問題を変えたい。身近なところでは、会社の文化を変えたいと思っている人もいるだろうし、人間関係を変えたいと思う人もいるだろうし、会議のやり方を変えたいと思う人もいるだろう。

私たちは、変えられない原因を他人や環境のせいにしていないだろうか。「あの人が悪いから変わらない」、「これがあるから変えられない」、などと考えていないだろうか。「私は変わらない。でも、私のまわりには変わって欲しい」などと願っていないだろうか。

もし、私たち全員が「私は変わらない。でも、私のまわりには変わって欲しい」という考えに立ったらどうなるのか?

答えは簡単である。 何も変わらないのだ。

ガンジーの教えは理にかなっている。自らが変わらない限り、結局何も変わらないのだから。

ロゴスウェアでは、重要な価値観として、主体性を掲げている。一人ひとりに変化の一部となって欲しいからだ。

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捨ててもいいものは何か


仕事のことやその他のことでも人はそれぞれ思い悩むものである。

私はよくトレードオフのことについて話す。いろいろ思い悩んだときは、何を捨ててもいいかをはっきりさせておくほうが良いと考えるからだ。

昔、巨人の星というTVアニメがあった。主人公 星飛雄馬は、父 一徹から野球の英才教育を受けて育つ。子供の頃から明けても暮れても野球一筋で育てられ、プロ野球巨人軍に入団する。その中に、ライバルのオズマから「お前は野球人形だ」と言われ、ショックを受ける話がある。自分は野球ばかりで、他の人が体験するような青春がない、と悩むのだ。

一流のアスリートの多くは、必ず何かを犠牲にしてきた。 女子ゴルフの横峰さくらや宮里藍にしても、卓球の福原愛にしても、彗星のごとく登場した男子ゴルフ 15歳の石川遼にしても。

それは、大きな経済的な負担であったかもしれないし、勉強時間を犠牲にしたかもしれないし、他の子供と楽しく遊んだりする時間を削ったかもしれないし、恋愛をすることを犠牲にしたかもしれない。

このような犠牲を一切払いたくないと考えれば、間違っても彼らのように若くしてアスリートとして成功することはできない。彼らはみんなまだ若い。しかし、自分にとって何を達成することが重要で、何は捨ててもいいかをはっきり理解していることにおいて彼らは紛れもないプロだ。

私たちのまわりには両立させることができない多くのことがある。自由を求めれば、責任を回避することができない。何かを成し遂げようとすれば、他の時間を削らなければならない。収入をあげようとすれば、仕事のプレッシャーから逃げられない。成功をしようとすれば、失敗のリスクがつきまとう。

単純なことである。両方求めることはできないのだ。「自由でありたいが、責任は取りたくない」、「大きな仕事の成果を上げたいが、趣味にもたくさんの時間を使いたい」、「収入は上げたいが、楽な仕事がいい」、「成功はしたいが、失敗はしたくない」などはありえないのだ。

人生をどう選択するかは一人ひとりが考えることだ。何をあきらめてもいいのかをはっきりさせれば、そう難しいことではない。

そのことを理解するだけでも、人生はずいぶん気が楽になるように思う。

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